補注
もう一度問いを繰り返そう。『マトリックス』は一体何の物語だったのか。
すべての物語には「目的」が必要である。どこへ向かうのか、なぜ向かおうとするのか、 その展開こそが物語であり、全ての物語は現状への不満と未来への希望によって展開される獲得もしくは喪失の過程である。
希望と欲望が同義か否かはひとまずおいておこう。とかく物語を理解するために必要な点はここに集約される。 主人公たちの希望は何であったのか、そして彼らはそのために何と戦っていたのか、それが一番明確な問題点だ。 当然のごとく我々もまた同様、自らの意思によって行動する者のすべてにこの問いは向けることができるが、 とりえずは『マトリックス』の中だけに限って話を進めていこう。
ネオ、サイファー、エージェント、アーキテクト、オラクル、それらの目的は何だったのか。
少し基礎知識を補強しておくが、タイトルであるMATRIXという語は古くは 子宮・母胎から原盤や活字の型など、何かが造られるおおもとを表わす言葉で、また数学では行列を意味する言葉である。 ネオが目覚めた赤い液体で満たされたポッドはまさに母胎であり、 ネオは己の身に何が起こったのかも分からずに産道に突き落とされ羊水とともに排出される。 へその緒であるプラグを通じて見ていた夢の世界マトリックスは機械によって管理される電気信号の幻影であった。
そして、「夢の世界」であるマトリックスと対置されていたのが「現実世界」としてのザイオン。 人工知能との戦いにおいて人類に残された最後の砦であるこのザイオンの名は、日本で言うところの「シオン」、 つまりユダヤ教の聖地エルサレムにある丘の名前であり、これは迫害と離散の歴史を持つユダヤの民にとって、 パレスティナの地にいつの日かユダヤ人の故郷を再建するという希望の象徴となっていた名前である。
マトリックスとザイオンの間で繰り広げられる戦いは、人間と機械、自由と隷属、現実と夢、善と悪、そうした二項対立を装っていた。 だがその実態は、それぞれの名前が担う意味そのままの通りに、赤いポッドとマトリックスは「母胎」なのであり、 ザイオンは「理想郷(ユートピア)」「自由」それらの願望・希望の象徴である。このようなことをわざわざ言及するのもはばかられるが、 これは善と悪が戦うアルマゲドンではない。1作目においてマトリックスへの再接続を画策したサイファーの目的は 胎内回帰の一言に尽きる。では反対にサイファーが裏切ったモーフィアスの目的は何であったか。 それは理想郷への到達、その一言に尽きるだろう。両者ともにより良い世界への到達を望んだ人間像である。
サイファーとモーフィアス、両者ともに目的はともかくとしてその手段を肯定する正義の中に大きな矛盾を抱えていた。 『マトリックス』はそこをしっかりと描いている。サイファーは随所で不道徳な存在として描かれ、 キリストを銀貨三十枚で売ったユダの面影を背負わされ、観衆にとって否定すべき悪の正義として描かれていたが、 現実と自由の解釈をめぐってモーフィアスと対立したサイファーの言明は一見理知的で筋が通っている。 一方モーフィアスはネオを正義へと導く偉大な父のように描かれてはいるが、オラクルが指摘したように「彼は盲目」であり、 ジーいわく「彼はまともじゃない」。モーフィアスはその名が示すとおり、夢を象徴する存在であり、 名の由来となっているギリシャ神話の夢の神モルフェウスは、眠りに入った人間に悪夢への門と良い夢への門のどちらかを 選択させる存在であるが、夢から現実へ引き戻そうとするわけではない。 そしてそもそも「夢」が意味するのは「虚構」と「理想」の二面性である(5)。
モーフィアスはそれを見事に体現する存在であった。
現実とは何か、その答えはモーフィアスが自ら語っていたように「脳が解釈をする電気信号に過ぎない」。
だが、彼はその自分の言葉を本当には受け入れてはいなかったはずである。 電気信号以外の何かがあると信じているからこそザイオンの存在する側こそが正しい現実であり、 皆がそこに立つことが望ましいと考え人類を解放しようとしていた。 では彼は電気信号以外の何を根拠にしてマトリックスを否定する材料としていたのであろうか。 それはくしくも、モーフィアスを否定したサイファーのほうがよく理解できていただろう。 マトリックスは現実じゃないというトリニティーの呼びかけに対してサイファーは言う。
「そうは思わんよ、トリニティー、マトリックスの方がこの世界よりもよっぽど現実だろう。
ここでは俺はプラグを抜くだけだ。でもそっちじゃ、エイポックが死ぬ。」
ここの「エイポックが死ぬ(原文:you have to watch Apoc die.)」という台詞は、少々書き換えた方が良かっただろう。 マトリックスとネブカドネザルの両方に死体が横たわっているわけなのだから、ここで語られるべき台詞はこうだ。 「エイポックの死に怯える姿が見えるだろう。」そしてサイファーはそれを語ったすぐ後に自ら死に怯えることになる。 こちらはマトリックスの外である。
そう、プラグに繋がれた肉体の前にどのような世界が広がっているかは問題ではない。それはなぜならば、 脳の中で展開されている光景こそが己にとって唯一リアルな世界だからだ。この点はマウスが見事に語っていた。
「問題はそこさ、考えてもみろよ、コンピュータに本当の味がわかる? わかるもんか」
現実というものが脳の解釈する電気信号に過ぎない以上、同じ電気信号として捉えられてしまうのであれば真と偽のあいだに違いは成立しない。 エイポックが死に怯えているときマトリックスは現実として認識されていたはずである。 また、「人間が栽培される」という現実をモーフィアスが「この目で見るまで信じられなかった」と言いながら ネオに対して突きつけたのはテレビ画面に映る映像だけだった。しかもそれはコンストラクトと呼ばれる仮想世界の中においてである。
夢であれどもテレビの虚構であれども、それが現実として認識されているのであれば、 その本人にとってそれだけが唯一の現実なのである。現実か夢か、真か偽か、 それを区別するための客観的な視座などというものは成立しない。すべては主観であり、要は本人が情報をどう受けとめるかだけなのであり、 夢と現実とを区別して現実に価値をおこうとするのは、夢を夢として認識する別の視座に立っていればこそである (6)。コンストラクトに初めて連れ込まれたネオは、モーフィアスに教えられることによって初めて 「ここが現実じゃない !?」 と、驚きとともに新たな視座を得たのである。
1作目公開当時、ある記者が一緒に映画を観た8歳の息子の言葉を書いている。
「噂で聞いたんだけど、『マトリックス』の話は本当のことなんだって」と。
それがまちがいだと証明することは原理的に不可能である。またそれゆえかこの問題は人々の不安を掻き立てる。 だが、この世界が仮想世界ではないかという考え、それが要らぬ心配であるということに大抵の者は気付いているのではなかろうか。 そのようなことを真剣に考える人間はおそらく精神病院に送られるだろう。それはなぜならば、そのような心配事は考え出せばきりがないからだ。 シミュレーションをシミュレートする世界、夢の中の夢、そうした疑惑は考え出せばきりが無い。
これはまさしく「胡蝶の夢」 ――私が蝶になった夢を見たのか、それとも今の私が蝶の見る夢なのか?―― という問題である。当然この問題にはどちらかの考えを肯定する答えなど成立しない。
モーフィアスは「夢と現実を区別することはできない」と言い、それでもなお「現実へようこそ」 「君は夢の世界にいたのだ」と言い放つ。モーフィアスはザイオンのある世界こそが現実であると信じていた。 我々も彼と同様、今住むこの世界が現実であると信じている。夢と現実の階層構造が理論上無限に続いている可能性があるのだとしても、 今我々は認識できる限りにおいて最上部の現実世界に立っている。それ以上のことは我々人間の認識の限界を超えることであり、 仮に認識の外に本当の現実世界が広がっているのだとしても、 虚構を現実であると信じているマトリックスの住人に対して、 誰もその世界が虚構であるなどと客観的に指摘することは正当なことではない。 一体誰の認識が一番正しいと断言できるだろうか。
人間ならば人間として、蝶ならば蝶として、その時々の現実を生きればよいだけのことである。そうすることしかできないのだから。
『鏡の国のアリス』の中でアリスは、自分という存在が赤の王の見る夢の中にだけ存在して、 赤の王が目を覚ませば消えてなくなるのだと教えられる。その言葉にアリスは怒り、そして泣き出してしまう。 けれども賢いアリスはすぐに気付くのだ。ばかげたことだ、泣く理由なんか無いのだと。
モーフィアス達は夢が夢であることを、夢であると信じるにたる別の現実を知ってしまった。 マトリックスに繋がれたままの人間とモーフィアス達との違いはその点だけであろう。マトリックスから解放された人間にとって、 昨日までの現実がマトリックスであり今日からはザイオンが現実、というだけの話に過ぎない。 ネオがエージェントに尋問を受けたときのようにザイオンもまた、いずれベッドで目覚め単なる悪夢として過ぎ去るのかもしれない。
ただアリスの場合とは少々違ってネオは、2つの世界を同時に覗き見てしまったのだ。 そのために今自分が存在する現実の足元すら見失い、そして嘔吐するほどの葛藤に陥らざるを得なかった。 その葛藤から逃れるために必要なのは自分が肯定して立つ足元である。ここで必要とされたのは、 現実とは何か、自由とは何かという問いの答えである。それはなぜならば、自由に正しく認識される現実の獲得を目的とする彼らにとって、 現実と自由の所在が明らかになることこそが必要最低限の足元だったからである。希望への一歩を踏み出すための足元である。 そしてサイファーはマトリックスを、モーフィアスはザイオンを肯定し、彼らはその信念のためにそれぞれにイデオロギーを組み立てた。 だが当然そこには矛盾が付きまとう。
サイファーは言う 「俺はこの肉が存在しないことは知ってるんだよ。 この肉を口に運ぶとマトリックスが俺の脳にジューシーで旨いと教える。 俺がこの9年で何を学んだかわかるか? 無知は至福ってことだ。」
サイファーは憐れにも己の望まぬ現実認識を得てしまった。この肉が実は存在しないという認識を得てしまった。 それゆえサイファーは「無知は至福である」と結論するに至る。サイファーが自由を獲得するためには、 もはや彼の現実認識自体が変容する他に道は無い。ザイオンという現実を肯定したとしても無知を獲得することは不可能である。 それを理解していたサイファーはだから「記憶の消去」と「あらかじめ約束された幸福」をエージェントに要求した。
この問題は我々にとっても同じである。我々はすでに現実というものが脳の解釈する電気信号に過ぎないことを知っている。 我々はすでに虚像を虚像として認識できる。サイファーやモーフィアスにはそれを克服するための希望が見えていたが、 我々は一体どうすれば良いのだろうか?
残念ながらそれはわからない。 ただ、サイファーのように記憶を消去し、自分が全くの別人になってしまって構わないというのであれば、 それでは自分という存在が今生きていようがいまいが一緒ということになるのではなかろうか。 とりあえずサイファーの倫理をめぐる問題はこの程度の言及にとどめておくことにしよう。
とかく、サイファーはシステムへの帰属と夢の中での安寧(胎内回帰)を求め、 そのために現在の現実認識を払拭することで自分の現実から上部世界の存在を消去しようとした人物だ。 それで一方のモーフィアスの行為はどう説明されるのか。そしてザイオンの人々が希望した世界は一体どのような世界のことだったのか。 彼らの目的地はどこか。
モーフィアスが求めていたのは、全ての人間をシステムへの隷属から開放し、人工知能による現実の支配 を打ち破ることであった。それはつまり、マトリックス内部において安寧を貪り暮らす人々と同様、 現実認識に対して微塵の疑問も抱かず、何物にも支配されず隷属せず現実を自由に生きていると疑いも無く暮らしていられる世界、その獲得である。言い換えるならこれは、ザイオンの上にマトリックス内部を再現しようという試み以外の何物でもない。モーフィアスは唯、目に見えた上部世界を乗っ取ることによって、もはやこれ以上に自分達を縛り付ける上部世界は存在しないと信じられる世界を構築しようとしていただけである。それこそが彼の希望であり目的だった。それゆえ彼の戦いは人工知能の殲滅と全人類の開放をその手段として、上部世界を乗っ取ることによって終焉を迎える予定だった。彼の行為は力ずくでスプーンを曲げる方法を広めてまわっていたのと同じである。
だがそのモーフィアスも2作目の終盤において、ネオから予言が嘘だったこと全ては仕組まれていたことを知らされ、 ようやく自らの盲目さに気付く。モーフィアスは語る。「私は夢を見ていた。だがその夢も去った」と。
だが、残念ながら彼はそれでもまだ覚醒するには至っていない。
作中に語られていたマトリックスの正体とは「システム」である。 そして、システムへの隷属というのは人間が交換可能な記号としてシステム維持発展の方程式に組み込まれる事である。 ザイオンの側に立つ人々はそこから開放されていたであろうか?
否、全くそんな事はないだろう。この点はウォシャウスキー兄弟もくどいほどの皮肉を通して描いている。
ネオ 「真実って何のことだ?」 モーフィアス 「君が奴隷ということだ。君は囚われの身として匂いも 味覚も無い世界に生まれた。心の牢獄だ。」
そして現実とされるネブカドネザル号にて食事を取る船員たちは、鼻水のような食物をすする。
ドーザーは言う「これさえ食っていりゃ、ほかに体に必要な物は何も無い」。 彼の頭の中にあるのはシステム維持のための方程式である。そこに矛盾があることは2作目においてさらに明確にされることになる。 ハーマン評議員は言う。
「この機械を見ているとマトリックスに繋がれた人々を思う。ある意味、我々も繋がれているのではなかろうか。」
彼の言葉を通じて、ザイオンに暮らす人々もまた理解困難、放棄困難なシステムの上に生活を築き上げていることは明瞭に描かれている。 そしてザイオンに暮らす人々の姿はただ圧政に苦しむ人々のそれであって、決して革命家などではない。 そこに描かれているのはシステム反逆者の姿ではなく、人々は終始状況に飲み込まれて「悪敵である機械」と戦っていたに過ぎない。 そして何よりも人々にはその自覚が無い。
『マトリックス』は優れた作品であるが、残念ながら描かれるべきだったと私が考える決定的な ひとつの要素が欠けているのがここである。ザイオンの人々はネオが経験したのと同様の衝撃的な足元の崩壊、 嘔吐してしまうほどの混乱を経験していない。1作目においてサイファーが担っていた役割を引き継ぐ存在が2・3作目にはない。 サイファーには主人公達の正義に対する対抗軸としての役割が有った。だが2・3作目においてはザイオンの民が掲げていた正義、 彼らの現実認識に対する反論が一切描かれていないのだ (7)。
そこにあったザイオンは、ただ救世主によって悪敵が討ち滅ぼされるのを待つ他力本願な宗教者の姿、 ミフネの特攻精神もまたシステム反逆者のそれとは違う。これはモーフィアスの正義の言明を少しもじってみればよくわかる。
「彼らはまだ真実を知る準備ができていない。彼らの多くが [ザイオン] に隷属し、 それを守るために戦おうとする。」
そういうことだ。
ザイオンは倒錯である。 仮にモーフィアスの思惑通りに全人類が開放されたとしたならば、 ネオがマトリックスの内部にいて「ずっと感じてきた」違和感と同様のものが生じてしまうだろう。 またぞろ赤いピルが欲しくなってくる。そのとき人々はまた救いの手を差し伸べてくれる存在を待ち望むのだろうか。 赤いピルと青いピル、そのどちらかの選択を迫ってくれる人物が現われることを待ち望むのだろうか。
自分の認識の及ばぬ世界に正しい現実が広がっているという幻想に根拠は無い。 我々は皆、自分だけの仮想現実を生きているのである。その現実は脳が解釈する電気信号にすぎないのではあるが、 それは誰かと共有することも交換することも不可能な、それぞれの信念によって形成される各人独りひとりにとって唯一の現実である。 客観的な正しい唯一の現実や事実があると思うのは幻想であり、正しい現実を獲得できると思うのもまた幻想である。 だが、サイファー、モーフィアス、ネオ、ザイオンの人々、それら皆より良い世界へと到達しようとした人間像であり、 彼らの現実を支えていたのは信念であり幻想である。 その幻想こそが各々の信じる希望、すなわち目的だったのである。 我々を規定するのは目的であり、 その目的に即した現実が各々の脳内に展開される。現実というのはそういうものである。
それゆえ、いかな人間に対しても、その人の現実認識の正誤を問うことすら正当なことではないのだろう。
それは、たとえその認識にどれ程の矛盾があろうとも。
長々と論じてしまったが、実はこの答えは1作目の終盤において、モーフィアスを助けに行こうとするネオがすでに語っていたはずである。ネオの行為を制止しようとするタンクとトリニティーに対してネオは言う。
「なぜならば、信じているからだ」と。
それを言われればもはや誰にも返す言葉は無いのである。
夢と現実、そして現実の価値をめぐる問題、もしこの世界がシミュレーションならば・・・
ここに記述してきたことがそれらの問題にたいする一応の解答であるが、実のところこれはモーフィアスやザイオンの問題ではあっても『マトリックス』が問題にしていた主要な点は他のことだったのではなかろうか。どうみても、モーフィアスが戦っていた相手とネオが戦っていた相手は同じものではない。この作品が敵として名指ししていた「心を縛るシステム」というのは、「社会システム」なんぞを指していたのではないし、そもそもこの作品はアンチサイエンスやアナーキズムなど唱えてはいないだろう。
1作目の最後にネオは誰ともなく語りかけている。
「おまえ達がそこにいるのは分かっている。俺は今それを感じることができる。お前達は恐れている。 俺たちを恐れている。変革を恐れている。未来がどうなるかは判らない。俺はこの先どのような結末を 迎えるかを 伝えに来たのではない。どのように始まるのかを伝えに来た。このあと俺はお前達が人々 に見て欲しくないと思っているものを人々に見せてやる。おまえ達のいない世界を人々に見せてやる。
ルールもコントロールもない世界、区別も境界もない世界、全てが可能になる世界。
そこからどこへ向かうかはお前達に選ばせてやる。」
この言葉の真意は2作目において明確にされていたはずだが、ここで敵視されている「システム」というのは「社会システム」 ではない。そうではなくてこれは「物理システム」のことなのであり、即ち絶対普遍の因果関係、決定された運命のシステムのことである。 全てが可能になることを許容しない存在の正体は社会ではなく「物理」なのであり、それこそが彼ら(特にネオ)が敵対していたシステムの 正体である。この作品の驚異的なアクションが、その考えの上に築かれたものであることは汲み取れるであろう。 驚異的な跳躍力、弾丸を回避する俊敏さ、それらすべてが「物理法則を超克せよ」というメッセージだったはずである。
夢と現実をめぐる認識の問題も、突き詰めれば物理の問題なのだ。なぜ多くの学者たちがここを現実問題として考慮しないのか甚だ不可解であるのだが、ここでとりあえず一応は示唆しておいた。
マトリックスと物理を巡る問題はまだ大量に残されている。心身一元論や運命決定論を始めとする科学哲学 考証について、次はそこを紐解いていこう。
理由からは逃れられん。目的も否定できん。
我々は目的なしには存在し得ないからだ。
目的が我々を生み出した。
我々は目的なしには存在し得ないからだ。
目的が我々を生み出した。
もう一度問いを繰り返そう。『マトリックス』は一体何の物語だったのか。
すべての物語には「目的」が必要である。どこへ向かうのか、なぜ向かおうとするのか、 その展開こそが物語であり、全ての物語は現状への不満と未来への希望によって展開される獲得もしくは喪失の過程である。
希望と欲望が同義か否かはひとまずおいておこう。とかく物語を理解するために必要な点はここに集約される。 主人公たちの希望は何であったのか、そして彼らはそのために何と戦っていたのか、それが一番明確な問題点だ。 当然のごとく我々もまた同様、自らの意思によって行動する者のすべてにこの問いは向けることができるが、 とりえずは『マトリックス』の中だけに限って話を進めていこう。
ネオ、サイファー、エージェント、アーキテクト、オラクル、それらの目的は何だったのか。
少し基礎知識を補強しておくが、タイトルであるMATRIXという語は古くは 子宮・母胎から原盤や活字の型など、何かが造られるおおもとを表わす言葉で、また数学では行列を意味する言葉である。 ネオが目覚めた赤い液体で満たされたポッドはまさに母胎であり、 ネオは己の身に何が起こったのかも分からずに産道に突き落とされ羊水とともに排出される。 へその緒であるプラグを通じて見ていた夢の世界マトリックスは機械によって管理される電気信号の幻影であった。
そして、「夢の世界」であるマトリックスと対置されていたのが「現実世界」としてのザイオン。 人工知能との戦いにおいて人類に残された最後の砦であるこのザイオンの名は、日本で言うところの「シオン」、 つまりユダヤ教の聖地エルサレムにある丘の名前であり、これは迫害と離散の歴史を持つユダヤの民にとって、 パレスティナの地にいつの日かユダヤ人の故郷を再建するという希望の象徴となっていた名前である。
マトリックスとザイオンの間で繰り広げられる戦いは、人間と機械、自由と隷属、現実と夢、善と悪、そうした二項対立を装っていた。 だがその実態は、それぞれの名前が担う意味そのままの通りに、赤いポッドとマトリックスは「母胎」なのであり、 ザイオンは「理想郷(ユートピア)」「自由」それらの願望・希望の象徴である。このようなことをわざわざ言及するのもはばかられるが、 これは善と悪が戦うアルマゲドンではない。1作目においてマトリックスへの再接続を画策したサイファーの目的は 胎内回帰の一言に尽きる。では反対にサイファーが裏切ったモーフィアスの目的は何であったか。 それは理想郷への到達、その一言に尽きるだろう。両者ともにより良い世界への到達を望んだ人間像である。
サイファーとモーフィアス、両者ともに目的はともかくとしてその手段を肯定する正義の中に大きな矛盾を抱えていた。 『マトリックス』はそこをしっかりと描いている。サイファーは随所で不道徳な存在として描かれ、 キリストを銀貨三十枚で売ったユダの面影を背負わされ、観衆にとって否定すべき悪の正義として描かれていたが、 現実と自由の解釈をめぐってモーフィアスと対立したサイファーの言明は一見理知的で筋が通っている。 一方モーフィアスはネオを正義へと導く偉大な父のように描かれてはいるが、オラクルが指摘したように「彼は盲目」であり、 ジーいわく「彼はまともじゃない」。モーフィアスはその名が示すとおり、夢を象徴する存在であり、 名の由来となっているギリシャ神話の夢の神モルフェウスは、眠りに入った人間に悪夢への門と良い夢への門のどちらかを 選択させる存在であるが、夢から現実へ引き戻そうとするわけではない。 そしてそもそも「夢」が意味するのは「虚構」と「理想」の二面性である(5)。
モーフィアスはそれを見事に体現する存在であった。
現実とは何か、その答えはモーフィアスが自ら語っていたように「脳が解釈をする電気信号に過ぎない」。
だが、彼はその自分の言葉を本当には受け入れてはいなかったはずである。 電気信号以外の何かがあると信じているからこそザイオンの存在する側こそが正しい現実であり、 皆がそこに立つことが望ましいと考え人類を解放しようとしていた。 では彼は電気信号以外の何を根拠にしてマトリックスを否定する材料としていたのであろうか。 それはくしくも、モーフィアスを否定したサイファーのほうがよく理解できていただろう。 マトリックスは現実じゃないというトリニティーの呼びかけに対してサイファーは言う。
「そうは思わんよ、トリニティー、マトリックスの方がこの世界よりもよっぽど現実だろう。
ここでは俺はプラグを抜くだけだ。でもそっちじゃ、エイポックが死ぬ。」
ここの「エイポックが死ぬ(原文:you have to watch Apoc die.)」という台詞は、少々書き換えた方が良かっただろう。 マトリックスとネブカドネザルの両方に死体が横たわっているわけなのだから、ここで語られるべき台詞はこうだ。 「エイポックの死に怯える姿が見えるだろう。」そしてサイファーはそれを語ったすぐ後に自ら死に怯えることになる。 こちらはマトリックスの外である。
そう、プラグに繋がれた肉体の前にどのような世界が広がっているかは問題ではない。それはなぜならば、 脳の中で展開されている光景こそが己にとって唯一リアルな世界だからだ。この点はマウスが見事に語っていた。
「問題はそこさ、考えてもみろよ、コンピュータに本当の味がわかる? わかるもんか」
現実というものが脳の解釈する電気信号に過ぎない以上、同じ電気信号として捉えられてしまうのであれば真と偽のあいだに違いは成立しない。 エイポックが死に怯えているときマトリックスは現実として認識されていたはずである。 また、「人間が栽培される」という現実をモーフィアスが「この目で見るまで信じられなかった」と言いながら ネオに対して突きつけたのはテレビ画面に映る映像だけだった。しかもそれはコンストラクトと呼ばれる仮想世界の中においてである。
夢であれどもテレビの虚構であれども、それが現実として認識されているのであれば、 その本人にとってそれだけが唯一の現実なのである。現実か夢か、真か偽か、 それを区別するための客観的な視座などというものは成立しない。すべては主観であり、要は本人が情報をどう受けとめるかだけなのであり、 夢と現実とを区別して現実に価値をおこうとするのは、夢を夢として認識する別の視座に立っていればこそである (6)。コンストラクトに初めて連れ込まれたネオは、モーフィアスに教えられることによって初めて 「ここが現実じゃない !?」 と、驚きとともに新たな視座を得たのである。
1作目公開当時、ある記者が一緒に映画を観た8歳の息子の言葉を書いている。
「噂で聞いたんだけど、『マトリックス』の話は本当のことなんだって」と。
それがまちがいだと証明することは原理的に不可能である。またそれゆえかこの問題は人々の不安を掻き立てる。 だが、この世界が仮想世界ではないかという考え、それが要らぬ心配であるということに大抵の者は気付いているのではなかろうか。 そのようなことを真剣に考える人間はおそらく精神病院に送られるだろう。それはなぜならば、そのような心配事は考え出せばきりがないからだ。 シミュレーションをシミュレートする世界、夢の中の夢、そうした疑惑は考え出せばきりが無い。
これはまさしく「胡蝶の夢」 ――私が蝶になった夢を見たのか、それとも今の私が蝶の見る夢なのか?―― という問題である。当然この問題にはどちらかの考えを肯定する答えなど成立しない。
モーフィアスは「夢と現実を区別することはできない」と言い、それでもなお「現実へようこそ」 「君は夢の世界にいたのだ」と言い放つ。モーフィアスはザイオンのある世界こそが現実であると信じていた。 我々も彼と同様、今住むこの世界が現実であると信じている。夢と現実の階層構造が理論上無限に続いている可能性があるのだとしても、 今我々は認識できる限りにおいて最上部の現実世界に立っている。それ以上のことは我々人間の認識の限界を超えることであり、 仮に認識の外に本当の現実世界が広がっているのだとしても、 虚構を現実であると信じているマトリックスの住人に対して、 誰もその世界が虚構であるなどと客観的に指摘することは正当なことではない。 一体誰の認識が一番正しいと断言できるだろうか。
人間ならば人間として、蝶ならば蝶として、その時々の現実を生きればよいだけのことである。そうすることしかできないのだから。
『鏡の国のアリス』の中でアリスは、自分という存在が赤の王の見る夢の中にだけ存在して、 赤の王が目を覚ませば消えてなくなるのだと教えられる。その言葉にアリスは怒り、そして泣き出してしまう。 けれども賢いアリスはすぐに気付くのだ。ばかげたことだ、泣く理由なんか無いのだと。
モーフィアス達は夢が夢であることを、夢であると信じるにたる別の現実を知ってしまった。 マトリックスに繋がれたままの人間とモーフィアス達との違いはその点だけであろう。マトリックスから解放された人間にとって、 昨日までの現実がマトリックスであり今日からはザイオンが現実、というだけの話に過ぎない。 ネオがエージェントに尋問を受けたときのようにザイオンもまた、いずれベッドで目覚め単なる悪夢として過ぎ去るのかもしれない。
ただアリスの場合とは少々違ってネオは、2つの世界を同時に覗き見てしまったのだ。 そのために今自分が存在する現実の足元すら見失い、そして嘔吐するほどの葛藤に陥らざるを得なかった。 その葛藤から逃れるために必要なのは自分が肯定して立つ足元である。ここで必要とされたのは、 現実とは何か、自由とは何かという問いの答えである。それはなぜならば、自由に正しく認識される現実の獲得を目的とする彼らにとって、 現実と自由の所在が明らかになることこそが必要最低限の足元だったからである。希望への一歩を踏み出すための足元である。 そしてサイファーはマトリックスを、モーフィアスはザイオンを肯定し、彼らはその信念のためにそれぞれにイデオロギーを組み立てた。 だが当然そこには矛盾が付きまとう。
サイファーは言う 「俺はこの肉が存在しないことは知ってるんだよ。 この肉を口に運ぶとマトリックスが俺の脳にジューシーで旨いと教える。 俺がこの9年で何を学んだかわかるか? 無知は至福ってことだ。」
サイファーは憐れにも己の望まぬ現実認識を得てしまった。この肉が実は存在しないという認識を得てしまった。 それゆえサイファーは「無知は至福である」と結論するに至る。サイファーが自由を獲得するためには、 もはや彼の現実認識自体が変容する他に道は無い。ザイオンという現実を肯定したとしても無知を獲得することは不可能である。 それを理解していたサイファーはだから「記憶の消去」と「あらかじめ約束された幸福」をエージェントに要求した。
この問題は我々にとっても同じである。我々はすでに現実というものが脳の解釈する電気信号に過ぎないことを知っている。 我々はすでに虚像を虚像として認識できる。サイファーやモーフィアスにはそれを克服するための希望が見えていたが、 我々は一体どうすれば良いのだろうか?
残念ながらそれはわからない。 ただ、サイファーのように記憶を消去し、自分が全くの別人になってしまって構わないというのであれば、 それでは自分という存在が今生きていようがいまいが一緒ということになるのではなかろうか。 とりあえずサイファーの倫理をめぐる問題はこの程度の言及にとどめておくことにしよう。
とかく、サイファーはシステムへの帰属と夢の中での安寧(胎内回帰)を求め、 そのために現在の現実認識を払拭することで自分の現実から上部世界の存在を消去しようとした人物だ。 それで一方のモーフィアスの行為はどう説明されるのか。そしてザイオンの人々が希望した世界は一体どのような世界のことだったのか。 彼らの目的地はどこか。
モーフィアスが求めていたのは、全ての人間をシステムへの隷属から開放し、人工知能による現実の支配 を打ち破ることであった。それはつまり、マトリックス内部において安寧を貪り暮らす人々と同様、 現実認識に対して微塵の疑問も抱かず、何物にも支配されず隷属せず現実を自由に生きていると疑いも無く暮らしていられる世界、その獲得である。言い換えるならこれは、ザイオンの上にマトリックス内部を再現しようという試み以外の何物でもない。モーフィアスは唯、目に見えた上部世界を乗っ取ることによって、もはやこれ以上に自分達を縛り付ける上部世界は存在しないと信じられる世界を構築しようとしていただけである。それこそが彼の希望であり目的だった。それゆえ彼の戦いは人工知能の殲滅と全人類の開放をその手段として、上部世界を乗っ取ることによって終焉を迎える予定だった。彼の行為は力ずくでスプーンを曲げる方法を広めてまわっていたのと同じである。
だがそのモーフィアスも2作目の終盤において、ネオから予言が嘘だったこと全ては仕組まれていたことを知らされ、 ようやく自らの盲目さに気付く。モーフィアスは語る。「私は夢を見ていた。だがその夢も去った」と。
だが、残念ながら彼はそれでもまだ覚醒するには至っていない。
作中に語られていたマトリックスの正体とは「システム」である。 そして、システムへの隷属というのは人間が交換可能な記号としてシステム維持発展の方程式に組み込まれる事である。 ザイオンの側に立つ人々はそこから開放されていたであろうか?
否、全くそんな事はないだろう。この点はウォシャウスキー兄弟もくどいほどの皮肉を通して描いている。
ネオ 「真実って何のことだ?」 モーフィアス 「君が奴隷ということだ。君は囚われの身として匂いも 味覚も無い世界に生まれた。心の牢獄だ。」
そして現実とされるネブカドネザル号にて食事を取る船員たちは、鼻水のような食物をすする。
ドーザーは言う「これさえ食っていりゃ、ほかに体に必要な物は何も無い」。 彼の頭の中にあるのはシステム維持のための方程式である。そこに矛盾があることは2作目においてさらに明確にされることになる。 ハーマン評議員は言う。
「この機械を見ているとマトリックスに繋がれた人々を思う。ある意味、我々も繋がれているのではなかろうか。」
彼の言葉を通じて、ザイオンに暮らす人々もまた理解困難、放棄困難なシステムの上に生活を築き上げていることは明瞭に描かれている。 そしてザイオンに暮らす人々の姿はただ圧政に苦しむ人々のそれであって、決して革命家などではない。 そこに描かれているのはシステム反逆者の姿ではなく、人々は終始状況に飲み込まれて「悪敵である機械」と戦っていたに過ぎない。 そして何よりも人々にはその自覚が無い。
『マトリックス』は優れた作品であるが、残念ながら描かれるべきだったと私が考える決定的な ひとつの要素が欠けているのがここである。ザイオンの人々はネオが経験したのと同様の衝撃的な足元の崩壊、 嘔吐してしまうほどの混乱を経験していない。1作目においてサイファーが担っていた役割を引き継ぐ存在が2・3作目にはない。 サイファーには主人公達の正義に対する対抗軸としての役割が有った。だが2・3作目においてはザイオンの民が掲げていた正義、 彼らの現実認識に対する反論が一切描かれていないのだ (7)。
そこにあったザイオンは、ただ救世主によって悪敵が討ち滅ぼされるのを待つ他力本願な宗教者の姿、 ミフネの特攻精神もまたシステム反逆者のそれとは違う。これはモーフィアスの正義の言明を少しもじってみればよくわかる。
「彼らはまだ真実を知る準備ができていない。彼らの多くが [ザイオン] に隷属し、 それを守るために戦おうとする。」
そういうことだ。
ザイオンは倒錯である。 仮にモーフィアスの思惑通りに全人類が開放されたとしたならば、 ネオがマトリックスの内部にいて「ずっと感じてきた」違和感と同様のものが生じてしまうだろう。 またぞろ赤いピルが欲しくなってくる。そのとき人々はまた救いの手を差し伸べてくれる存在を待ち望むのだろうか。 赤いピルと青いピル、そのどちらかの選択を迫ってくれる人物が現われることを待ち望むのだろうか。
自分の認識の及ばぬ世界に正しい現実が広がっているという幻想に根拠は無い。 我々は皆、自分だけの仮想現実を生きているのである。その現実は脳が解釈する電気信号にすぎないのではあるが、 それは誰かと共有することも交換することも不可能な、それぞれの信念によって形成される各人独りひとりにとって唯一の現実である。 客観的な正しい唯一の現実や事実があると思うのは幻想であり、正しい現実を獲得できると思うのもまた幻想である。 だが、サイファー、モーフィアス、ネオ、ザイオンの人々、それら皆より良い世界へと到達しようとした人間像であり、 彼らの現実を支えていたのは信念であり幻想である。 その幻想こそが各々の信じる希望、すなわち目的だったのである。 我々を規定するのは目的であり、 その目的に即した現実が各々の脳内に展開される。現実というのはそういうものである。
それゆえ、いかな人間に対しても、その人の現実認識の正誤を問うことすら正当なことではないのだろう。
それは、たとえその認識にどれ程の矛盾があろうとも。
長々と論じてしまったが、実はこの答えは1作目の終盤において、モーフィアスを助けに行こうとするネオがすでに語っていたはずである。ネオの行為を制止しようとするタンクとトリニティーに対してネオは言う。
「なぜならば、信じているからだ」と。
それを言われればもはや誰にも返す言葉は無いのである。
夢と現実、そして現実の価値をめぐる問題、もしこの世界がシミュレーションならば・・・
ここに記述してきたことがそれらの問題にたいする一応の解答であるが、実のところこれはモーフィアスやザイオンの問題ではあっても『マトリックス』が問題にしていた主要な点は他のことだったのではなかろうか。どうみても、モーフィアスが戦っていた相手とネオが戦っていた相手は同じものではない。この作品が敵として名指ししていた「心を縛るシステム」というのは、「社会システム」なんぞを指していたのではないし、そもそもこの作品はアンチサイエンスやアナーキズムなど唱えてはいないだろう。
1作目の最後にネオは誰ともなく語りかけている。
「おまえ達がそこにいるのは分かっている。俺は今それを感じることができる。お前達は恐れている。 俺たちを恐れている。変革を恐れている。未来がどうなるかは判らない。俺はこの先どのような結末を 迎えるかを 伝えに来たのではない。どのように始まるのかを伝えに来た。このあと俺はお前達が人々 に見て欲しくないと思っているものを人々に見せてやる。おまえ達のいない世界を人々に見せてやる。
ルールもコントロールもない世界、区別も境界もない世界、全てが可能になる世界。
そこからどこへ向かうかはお前達に選ばせてやる。」
この言葉の真意は2作目において明確にされていたはずだが、ここで敵視されている「システム」というのは「社会システム」 ではない。そうではなくてこれは「物理システム」のことなのであり、即ち絶対普遍の因果関係、決定された運命のシステムのことである。 全てが可能になることを許容しない存在の正体は社会ではなく「物理」なのであり、それこそが彼ら(特にネオ)が敵対していたシステムの 正体である。この作品の驚異的なアクションが、その考えの上に築かれたものであることは汲み取れるであろう。 驚異的な跳躍力、弾丸を回避する俊敏さ、それらすべてが「物理法則を超克せよ」というメッセージだったはずである。
夢と現実をめぐる認識の問題も、突き詰めれば物理の問題なのだ。なぜ多くの学者たちがここを現実問題として考慮しないのか甚だ不可解であるのだが、ここでとりあえず一応は示唆しておいた。
マトリックスと物理を巡る問題はまだ大量に残されている。心身一元論や運命決定論を始めとする科学哲学 考証について、次はそこを紐解いていこう。
03.11.26