メタフィリア ラボラトリー
matrix
(1) 『マトリックス』3部作を読み解く

補注
WachowskiBros:
「僕達は、極めて重要なフィクションというのは、いくつかの大きな問題に答えようと試みるものだと思っている。 僕達が最初に『マトリックス』のアイディアを思いついてから話し合ったことの1つが、 哲学と宗教と数学がそろって答えを探している(と僕達が思っている)観念だ。 それは自然界と僕達の知性が認識するもう1つの世界との調和なんだ。」 (1)

1999年に公開された『マトリックス』 (2)と2003年に続けて公開された『リローデッド』と『レボリューションズ』の 3部作。ウォシャウスキー兄弟の手によるこの作品は、熱狂的なファンを生み出し、そしていくつかの史上初 の記録を打ち立て、そして観衆に多大な疑問を投げかけたまま去っていった。 オラクルは言う。「始まりの あるものには必ず終わりがある」と。そこで始まりと終わりを迎えたのは何だったのだろうか。そしてこの台詞 は別の含みがあることを匂わせる。始まりの無いものには終わりも無いのだよ、と。
さて、この一連の作品は一体何の物語だったのだろうか?




 映画が公開されるやすぐさま物語をめぐって様々な解釈が飛び交い議論されていたように、この作品は 様々な視点から見ることを可能とする作品である。この3部作に描かれていた数々の難解な設定には、それ ら全てを関連付けて説明する1つのシナリオが裏では成立しているはずだが、この作品はそうした筋道だっ たシナリオが表面的にでも見通せるようには造られていない。作中いく度も発せられる「なぜ?」という問いか けに対して答えは不鮮明であり、脈絡の判然としない台詞が物語の奥行きを感じさせるが、結局不鮮明なま ま物語は終局へと向かう。そして我々観衆は疑問を抱く。「なぜ?」「つまり?」「何が起こったの?」と。
2・3作目は物語自体の不鮮明さが際立ち、それゆえ不満の声も高い。だが不鮮明さは逆に言えば、想像力 を働かせる余地が多分に残されていたとも言えるだろう。それは、ウォシャウスキー兄弟がこの作品を通じて 表現しようとしたことの1つだったのではなかろうか。我々を駆り立てるのは「疑問」なのだよ、と。
1作目の後にタイム誌のインタビューに応えてウォシャウスキー兄弟は語っている。
 「観客は映画に盛り込まれたほのめかしをすべて理解するとは限らないけど、肝心なアイデアは理解してくれる。 僕達は皆に考えてもらいたいんだ。あたまをひねってもらいたいんだよ。」 (3)
 1作目において描かれていた「覚醒せよ」というメッセージが2・3作目において「考えさせる」ための新たな 手法として体現されていたのではなかろうか――とは好意的な解釈だが、3作目の『レボリューションズ』とい うサブタイトルも観衆独りひとりの改革(覚醒)がひとつの狙いであったことを思わせる。だが、1作目の大反 響に比べて2作目3作目の評価は概ね下がっているようであり、斬新な手法が功を奏したのかどうかは少々 疑がわしい。それでもこの作品が革命的に映画の新たな在りかたを提示して見せたことは確かな事実として 言えるだろう。映像の技術やセンスの斬新さはもとより、観衆が物語のそして哲学の謎解きを楽しんでいた 事こそがこの映画のなした最大の功績ではなかろうか。
 2作目の序盤にモーフィアスは 「この半年で解放した人間の数は、過去6年間を上回る」と語る。この台詞 はやはり1作目によって覚醒させた観衆のことを暗に含めていたのだろう。当初から3部作として企画されて いた『マトリックス』は、1作目が舞台を温める役割を果たし2作目こそが真骨頂であったと私は見るが、ウォ シャウスキー兄弟の考え通りに「自ら考えさせる」ことには成功していたであろうけれども、残念ながら、それ 以上のメッセージが伝わっていたかどうかとなると、観衆の反応にも作品の出来にも少々疑問を抱かざるを 得ない。
マトリックスとは何か、そして『マトリックス』は何の物語だったのか、はたしてそれが伝わっていたであろう か。そして作品はそれを伝える手段として適切であっただろうか。

事実『マトリックス』1作目は、多くの者達によってシナリオが研究され論じられたにもかかわらず、物語の内 容に関しての賞はひとつも受賞していない。不可解なことにノミネートすらされていない。選考委員達が『マト リックス』を一体何の映画だと思ったのか理解に苦しむが、多くの「識者」たちが指摘していたように、この作 品は善と悪の戦いに終止符を打つ救世主が現れるという神話の現代版アレンジだったのだろうか?ユダヤ・ キリスト教的な、慈愛に満ちた千年王国到来までを描く物語だろうか?形而上学的な深遠さとサイバーパン クのイメージで着飾っただけのカンフー映画、あるいはその逆、格好良い映像で着飾った啓蒙的な思弁作品 だろうか?大衆批判と革命を肯定するテロリスト喝采で結局最後は「愛だよ」と言いたかったのか? アンチ サイエンスのSFという矛盾に根ざす現代風刺に満ちたダークヒーロー映画だろうか?
違う。
そのどれもが少々見当違いだろう。だが厳密には、そのどれもが同時に正しくもあると言っておこう。
それは、『マトリックス』が様々な解釈を許容する作品だからであり、特定の世界観を肯定してはいないからである。 チャットで行われたウォシャウスキー兄弟へのインタビューの中で、あるファンが訊ねている。「あなた達の映 画には、様々な神話や哲学への結びつきがある。私が気付いただけでも、ユダヤ教やキリスト教、エジプト神 話、アーサー王伝説、プラトン哲学などです。そのどこまでが意図的なものだったのですか?」それに対する 彼らの答えは「その全て」ということだった。他のインタビューでは仏教、数学、量子物理学についても触れて いる。また彼らは、様々な名前や数字、それらがどれも注意深く選ばれたものであり、どれも複数の意味を持 っていることを述べている (1)。 そして『マトリックス』を論じた文化批評家のジジェクは、この作品が哲学者・思 想家のロールシャッハテストのようなものではないかと語る (4)。 それはつまり皆が皆それぞれに自分好みの 考え方、聞く用意のある言葉だけを物語の中から拾い出すということである。当然のごとく見ようとしない事柄 は見えてこない。

これはきわめて重要な点である。
この作品がそれを可能にしているのは、ひとえにこの作品があらゆる価値観を、当然相反する価値観をも含 めて、おおむね等価として描き出しているからである。この作品は、明確な二項対立を通してそれぞれの正 義を描き、皮肉に満ちた描写によって様々な矛盾を浮かび上がらせている。おそらくウォシャウスキー兄弟は それを明確に意図していただろう。科学技術・欲望・知識・システム・愛・理性など、それらの否定と肯定の両 方の視座、キリスト教と仏教、心身二元論と心身一元論、因果律に基づく運命決定論、意思に基づく選択の 自由、それら様々な世界観が肯定とも否定ともつかずに対置されている。彼ら兄弟はそのバランス感覚にき わめて優れている。だからこそこの『マトリックス』という作品は、あらゆる解釈を可能とするのであり、安直な カテゴライズをはねつける。そしてそれゆえにこの作品は「ある年齢に達していない者」、つまりは、主義思想 の凝り固まっていない人間であるならば、多様な側面を持つ理解困難な物語として映り、その多様な視点ゆ えに自分が肯定すべき価値観をめぐって葛藤せざるを得ない。即ち「自ら考え」ざるを得ない作品となってい るのである。
ほら、
それで結局赤いピルを取るべき理由はあったのか? サイファーが非難される理由は何か?
ザイオンの人々は最終的に何を得たのか? 物語において勝利を収めたのは誰だったのか?

『マトリックス』を論じた哲学者の多くは、この作品が深遠な問いの表層だけを語るだけ語り答えを提示してい ないと言い、そして「だから赤いピルを取ろうそれが良いことだ」と言う風に皆好き勝手に解釈して論じてい た。だが少なくとも道徳哲学に関して『マトリックス』は明確なひとつの答えを提示していたはずである。
それはすなわち、「善も悪もない、ただ多様な価値観を受け入れよ」ということである。 それが『マトリックス』の伝えんとしたメッセージであり、この作品が多様な解釈を許容するように造られてい たことも、そうしたウォシャウスキー兄弟の主張の表れであったのだと私は思う。彼らが観衆に望んだ「覚醒: 心を開放する」とは、ただ単に疑い考えることではなく、その上で柔軟に考え多様な視座を持つことを指して いたはずである。

両極を包含し中庸に立つ。もはやそこにスプーンは無く、「曲がるのはあなた自身」なのである。
もはやどちらのピルも必要ない。




ウォシャウスキー兄弟の主張を私が正確に汲み取れているとは思わぬけれども、またそれゆえに、この作品 が適切であったのかどうかをしばし考えてしまうのだ。モーフィアスを通じて語られていた彼らの思惑ほどに 観衆の心を開放できただろうか。とてもそうは思えぬのだが、ただそれでも私は『マトリックス』3部作がこれま での映画史を総決算するかのような作品であったと評価している。そして同時に新たな21世紀像も描かれて いたのだろうと思う。それは少々不鮮明なものではあったが、それこそが『マトリックス』も引き合いに出して いたボードリヤールが語るように、「新しいゲームの始まり、ルールは不確実性」という事だったのではなかろ うか。
だが、唯々不確実性を語るばかりでは誰もそれを理解しないし、前進はない。そして『マトリックス』が描いて いるものとは裏腹に、その下地には明確な「必然性」がある。不確実性がルールになる時代はまだまだ遠い のだ。今はまだもう少し子細に必然性を解明することが必要だろうと私は思う。 それゆえまだもう少しだけ『マトリックス』の世界を解き明かしていくことにしよう。
それで必然的な問題点もいくらか見えてくるだろう。
03.11.22


HOME
禁じられた真実
更新履歴
論考
箴言集 ’08.05
雑記 ’07.04.19
> 研究
事典
掲示板 ’16.12.05




当サイトについて 著作権・リンクについて