価値の存在証明は不可能であり、それゆえに真実は残酷なものとなる。
ルールと戦う者には真実を受け止める強さが必要だ。だが同時に例外を探そうとする姿勢もまた重要だ。あらゆる原理において、そこに例外が存在し得ないことを証明できた者は居ない。
あらゆる信念体系を疑ってかかることは探求者に求められる姿勢のひとつであるだろう。
ただし、その懐疑的姿勢が単なる現実逃避でないのなら、という条件はついてくる。
私は「価値追及のジレンマ」の原理に従って物事を見ている。けれども無理矢理に悲惨な現実を描こうとしているわけではない。自然状態においても自由意志が発現しうる可能性は否定しない。現実は悲惨でないにこしたことはない。
ただ、それが成立したとしても刹那のことに過ぎず、継続は困難なはずであるということ、そしてそれが無作為に成立したのであれば、結局のところ巡りめぐって元の木阿弥となるということを明確にしておきたかった。残念ながらその公算が非常に大きい。だから決して喜ばしくはない現実として「人間がしていることは結局こういうことに過ぎない」と言えてしまう。
それがまったく根も葉もないことで現実にそぐわないのだとしたら、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしていればいい。だが我々は笑ってはいないはず。残念ながらそれが現状だ。
だが、それならば我々はそれを変えるための方法を考えればよいのである。唯それだけの事である。
心とは何か。我々はいったい何物なのか。
これを著すにあたって扇情的な表現を多用したことを、今更ながら少し詫びておこうと思う。
こうした表現技法はすべて、禁忌に光を届かせるために行った。感情を喚起しない情報は意識上に現れにくい、解釈がぶれてしまっても禁忌は見えてこない。それゆえ扇情的な言葉を出した。
そうやって私はあなたを操作しようとした。それがあなたの誇りや自尊心を傷付けることもあっただろう。だからこれを詫びておこう。
結局のところ、我々がこの戦いを企てるのは、己の誇りや自尊心を守るためだと、そう言ってしまえるのかもしれない。だとしたら、そのために自尊心を傷つけねばならないというのは、どこかおかしなことではあるのだから。
そしてまた、我々にとっての現実とは所詮思い込みの世界に過ぎないわけなのだから、自由意志が現実か幻か、それもまた所詮は思い込みの問題だ。だから「知らない方が幸せだ」というのは正にその通りなのである。知ってしまった者は痛みに囚われて、もはや後戻りできなくなってしまう。
これまで禁忌が白日のもとにさらけ出されることが無かったのには、それも一因として関わっているだろう。ひとが知りたくない事柄を無理に教えることを正当化するような、そんな正義を誰も持っていないのだ。真実は残酷なのだと、それを無理に喧伝してまわるようなつもりは私にだって毛頭無い。
けれども、私はこうも考える。
そこで後戻りすることを望んだり、諦めとともに涅槃の静寂に辿りつくことに望みを託すしかなくなるような、そんな世界に我々が立たされているのなら、それ自体もはや絶望に値する。
そして不謹慎な言い方になってしまうが、そんな世界なら壊しても構わないだろうと。
一度くらい試してみても構わないだろうと。
そう考えるわけだ。
私の自尊心はとうの昔に崩壊寸前まで行った。そして決して譲ることのできないものだけは、ここに残されていることに気が付いた。だから私はこの領域に足を踏み入れた。唯それだけの事である。
此処に踏み込んだ自分の身勝手であることは重々承知の上である。だから大義名分や正義を掲げることはしたくない。
ただ、
どのみち真実は消えないものなのだ。
封印しようとしても誰かが見つけて同じことを繰り返すだけである。
「歴史は繰り返す」――そこに込められた思いが単なる諦めに過ぎないのでないならば、
だったら今、歴史を繰り返さないための方法を、一度くらい試してみても構わないだろう?
わたしは唯そう考えるだけだ。
そしてこれを断行するためには、多くの意識と知識をそこに向かわせる必要がある。
だから私はこうして筆を執って、今あなたの前に居る。
ここまで書き進めてきて、ようやく序章で述べた言葉の意味を補足できるようになった。
我々人類が何をしてきたか。そして自分が今まさに何をしているのか。それを自明のものとできた時に初めて、我々の限界と可能性とを明瞭にすることが可能となる。それが情報の淘汰を加速させるということだ。そして、それがあって初めて、我々がこれからどこに向かうのか、その方向性を紡ぎ合わせ決然たる意志で新たなベクトルを織り成してゆくことが可能となる。
それが情報の有用性そのものを淘汰するということだ。
何の為に、何を行うか。
価値は、目的のあるところにしか生まれない。
本能由来の強要された価値ではなくて、
自らの手で価値を作り上げてゆく。
それが新たな目的の場所である。
あなたが メタフィリア とともにあらんことを。